冥王星
冥王星が惑星の定義から外されることが決まってしまいましたね〜。
私個人的は、「いいんじゃない?」です。
人間が勝手に決めている事ではあるけれど、「惑星とはなんぞや?」ということにひとつの定義ができた。必要なことだったと思うわけで。
占星術的にも別に、役割が変わるとは思ってないかな。
だって、太陽だって「恒星」で「惑星」じゃないし。
星じゃない、ドラゴンヘッドやドラゴンテールだって占星術に使われているのだから、別にどってことないと思っている。
@hida@ちゃんは、「発見されてから70年、無意識の世界が決して珍しい事でもない、日常にあるということに多くの人たちが気がついて、浸透した結果じゃない?」といっていたけれど、それも一理あるかもね。
私というと、「なんか神話をみているようだなぁ・・・」と思った。
惑星にギリシア・ローマ神話の神々の名前がつけられているけれど、確かに星も神も似ていると思う。
膨大な、永遠とも等しいときの流れの中にある存在であり、そこに「在る」のに、日常の私たちの生活の中では「無い」ように感じる存在のところとか(太陽と月は別だけれど。日常の人は火星がどーしたとか、土星があーだなんて言わないものねぇ・・・。だからSUNとMOONは神々の名前がついていないのかな?)。
昔、『古事記』『日本書紀』の神代を勉強していて。
「『お隠れになった』神々というのはどこに行ってしまったのだろう?なんなのだろう?」と思ったことがある。
古事記を読んでいても、天の御中主の神から始まる別天つ神(ことあまつかみ)達とか、国の常立の神からイザナギ・イザナミに至る前までの神世七代の神々とか。
「別にたいした意味はないんだよ。中国の天地創造の神話の真似なんだから」とか、「膨大な時間の流れを表しているだけ」とかって言われてしまうのだけれど、「言霊」というものが存在する日本ならば、単なる「帳尻あわせ」だけにいる神様なんていないよ、って思う。
有名なイザナギの神様だって、天照大御神等、三柱の貴神を創造した後は古事記には登場しないけれど、じゃあ、イザナギもまた三貴神を創ったら用無し?死んでしまうの?って思ったものだ。
神は常にそこに「在る」。
我が家には昔の祖父母の家にあったように、神棚なんてない。昔はお手洗いにだって神様がいたけれど、我が家にはそんなスペースはトイレに無い。
そもそも無宗教だし。
でも、一神教の外国はまた考え方が別なんだろうけれど、無宗教だからといって神の存在を否定しているわけではない。単に特定の宗教法人団体にお金払ってないし、墓もないよというだけのことだ。フツーに正月になれば神社で賽銭はらって拝むもんね。
・・・・話がそれた。(おい)
なんていうのかな、神々の命の連鎖、とでもいうのかな?
別天つ神→神世七代→イザナギ・イザナミ→天照大御神 という各々の時代の中に主役となる神がいて、他の神が隠れてしまっても、死んだわけじゃない。
神棚祀らなくても、特定のお寺さんの檀家になっていなくても、神や仏の存在そのものを否定しているわけじゃない。
神や仏だけではなくて、天使とか妖精とか、高次の存在とか、なんでもいいけれど(笑)、目には視えない不可視の存在は、普段の日常の生活にはまったく必要がないのかもしれないけれど、ちょっとしたとき・・・美しい自然を感じたり、逆に天災の凄まじさを知ったとき、偶然とは思えないような出来事が起きたときに、ふっと人間には到底叶わない、大きな力を身近に感じて、感謝をしたり畏敬の念を抱くんだろうなって私は思う。
惑星の力もそんな感じかな。若夏さんのホロスコープが私にとって、初めての占星術だったわけだけれど、普段はまったく感じない星の力がいかに人間に作用しているかということを知ったとき、本当に心のそこから人間と惑星の関係の不思議さを感じたものだった。
冥王星は今回で惑星という定義から外される事にはなるけれど、より無意識が表に出るのか、それともさらに無意識の向こう側へ移動するのか、ちょっとドキドキ。
ただ、まあ、無意識の暴走だけは止めて欲しいかな〜〜。
これが1番怖いのよね。
でも、ある意味、やはりこの無意識を意識してコントロールすることを求められている時代なんだろうね、と改めて思ったのでした・・・