「普通」ということ

一昨日のおスズメ様のとき。
おスズメ様(・・・という呼び方がなぜか定着してしまった)が手元に来るということも露知らず、私はた〜くさん、石(タンブル8個とぶっかき1個)を買ってしまった。
その中には、少し前のブログに書いたレピドライトのタンブルもあるのだけれど、いまとても気になっているのは、ブラックベリル(ぶっかき)とアベンチュリンたちである。

ブラックベリルは長いこと店に残っていた最後の1個だった。いっけん鋼のような不思議な光沢が感じがあり、近寄りがたく、かつ他のベリルたち・・・アクアマリンやモルガナイトと比べると地味な雰囲気で、「美しい」とはなかなか思えない石だ。
だけれど、ベリル独特の近寄りがたくも神々しくも感じさせる雰囲気は健在だし、なにより光にかざしたときの、青みがかった薄墨色はとても魅力的だ。

私にとって、ベリルは「聖堂」だ。
人それぞれだとは思うけれど、私は神社やお寺、教会などに行くことがあっても、それが「厄年のお払い」とかそーゆー風な儀式的なことでもない限り、つまり単に旅行や初詣とか程度のときは、神様とか仏様に「○○してくださるようお願いします」といったことは、お願いはしない。単に「こんにちは」とご挨拶をさせていただくだけだ。
だって、そんなにお賽銭出してないし(笑)。
・・・金銭だけが問題ではないのだろうが、なんていうのかな?
神様、仏様に祈る前に、自分でナントカしろよ、というのが私の考えなので、あんまりそこに「なにか」を求めない、という感じかな。

でも、お寺や神社、教会といった「聖域」は好きだ。逆に「神様、仏様に祈る前に、自分はどこまできたのか?」って考えて、自分を見つめなおしたり、リセットしたりすることによって、とてもニュートラルな気持ちになれる。
ベリルもそう。

ベリルの高貴な輝きは、とても静謐で、自分の内面にさざめく波を凪いでくれる。「動じない強さ」ともいうのかな? そんな感じ。



一方のアベンチュリンは、レピドライトが気になり始めたときと時を同じくして気になってきた石だ。
もともとはこの浅田飴のようなグリーンのまったりとした色合いがどうも好きじゃなかったのだけれど、ディープ・レッドのアベンチュリンと、ホワイト・グリーン・アベンチュリンを見たときに、「アベンチュリン綺麗かも」って思ったら、浅田飴色のアベンチュリンも好きになったというわけ(笑)。


この浅田飴色のアベンチュリン。先だって、ある方に「アベンチュリンは『普通』ということを学ぶ」といわれた。
「普通」って・・・どこのなにを基準にしていっているんだろうねぇ?
根っからのみずがめ座のワタクシとしては、「自分にとっての普通」が他人とずれている・・・ことがある。それは全てではないにしろ、「ああ、自分の普通と周囲の普通って違うよね」って気付いてはいるのだが、だからと言って修正するつもりはさらさらない。でもそーすると「変人」扱いされるんだよねぇ・・・しみじみ。

ちょっと今現在、あらゆるところから「周囲にとっての普通」を押し付けられていて、それにウンザリしているところだったから、その方に「『普通』を学ぶ」といわれたときにドキッとした。

でも、とも言われた。「『普通』を学ぶとはいえ、だからといって『周囲にとっての普通』に自分が同調しなくてはならないということじゃないんだよ」と。
私にとっての『周囲』にしたって、家族とか友達とかけっして広い範囲ではないのだから、それが絶対!ということではないのだということ。

そしてアベンチュリンを見る。
Tianにあるアベンチュリンは4色。ピンク・アベンチュリンはなんかレピドライトっぽいのだけれど、それぞれに特色があり、見ていて楽しい。
『普通』だって、こんなにバリエーションがあるのだ。人間の世界の『普通』だってバリエーションがもっともっとたくさんあっていいはず。

ブラックベリルのような強さと、アベンチュリンのようなおおらかな『普通』のあり方を、もっと学ばないとねぇ・・・としみじみと思ったのでした。