原石と磨き石

・・・ということで(どういうことだ?)、「記紀を読んで日本神話を楽しもう週間」を繰り広げていた私だったが、「そっかー」と気がついたことがあった。

よくお店で、「原石と磨いた石とどっちがパワーがあるんですか?」と聞かれる(あと多いのは「小さくて安い石でも、パワーはあるんですか?」というのもある・・・)。

それらの質問に対しては、「ご自分で手にとって『いいな』と思う石、相性の良い石を選んでください」とお答えしている。
それは当然の話で、嫌なものを持っていても仕方がない。「高くて大き石」を買ってくれたら店員として嬉しいがそういうわけにもいくまい。「好きなものを、ご自分の意思と責任で買っていただく」・・・まあ、当然だわな。

ただ、私がどうなのかな?と思っていたのが、原石と磨き石のパワーというかエネルギーというかナゾナゾ君の違いだった。「形のあるものには命が宿る」とも言うから、カーヴィングはもとより、ハート型やスフィアやエッグは、なんか用途がありそうな感じがするけれど、タンブルはねぇ・・・形という形、でもないし。
でもひょっとしたら、原石と磨き石ではナゾナゾ君の質が違うのかもしれない・・・と思いつつ、ナゾナゾ君を視たり感じたりすることができない私は、実体験で比べることはできない。


で、記紀を読んでいて思ったのは、「石(原石)」と「玉(磨き石)」は使う用途が違うような気がする、ということだった。
「石」や「岩」は神を封印したり(「千引き石」「天の岩戸」)、石自体に「呪力」を持つ。だから石は醜く、強い(イワナガ姫)。「石」は「石」そのものに力がある。

玉は「美しいもの」を表す。玉依姫とか「玉」がつく女神や姫妃は美しい。だが玉自体には力がないような気がすると思った。
イザナギがアマテラスを誕生させたときに「御頸珠の玉の緒をゆらりゆらりと動かしながら、アマテラスに渡して『汝は高天原を治めよ』と言ったのは、イザナギが持つ「高天原の(天界)統治権の力」を「御頸珠」に込めて渡したのだし、「海幸彦・山幸彦」で有名な「潮満珠・潮干珠」は海神の力を山幸彦に渡したもののようだ。
と、いうことは玉は、玉自体に力があるというよりは、水筒やポットのようなもので、自分自身のパワーやエネルギーというものは、その中に入る水やお茶のようなものなのかもしれない・・・と思ったのだ。

そう考えると、人間は体調の良し悪しがあるから玉(磨き石)に体調の良いときの、良いエネルギーを保存して玉を使ったりはできる。あるいは電気ポットがあるように、水をお湯に変えたり、浄水フィルター付きのポットのように、エネルギーを純化させたり、パワーUPさせたりすることはできるかもしれない。
だけれど、水は水だから、いきなりコカ・コーラに変化させることはできない、ということだ。よく@hida@ちゃんが「潜在能力以上のことはできない」とよく言っているけれど、ようはそーゆーことなんだろうな。

と、いうことは原石にはナゾナゾ君がどこからかやってきて宿るのかも知れないけれど、磨き石は自分自身のナゾナゾ君の部分をどうするのか、ということにかかってくるわけだ。

・・・・・・・・・・・・・・・と、記紀を読んでいて思ったんだけど、どうかな?
私自身はナゾナゾ君を視たりすることがないし、いま書いたように記紀を読んで「原石と磨き石の違い」を考えただけだから、もっともっといろいろな考え方や感じ方があるのだとは思う。

でも、石のナゾナゾ君を信じ、感じているのならば、同じ水晶でも原石と磨き石で使い方を分けて楽しんでもいいんじゃないかな〜、と思い、もうちょっと言葉が練れたら、「原石と磨いた石とどっちがパワーがあるんですか?」と質問されるお客様に「違い」を説明して、その上でどちらを選ばれるかを考えてもらえるようにしたいなぁ・・・と思ったのでした。