クリスタルとワークをする・・・その前段階の疑問

先日、pundarikaさんによる『クリスタルとワークをする』という講座の第二回目を開催し、HPのコラムにも「クリスタルとのワーク」を寄せていただいた。
そこで、私なりにクリスタルとワークするってなんだろうね?と思ってみたわけだ。

最初に言っておくけれど、私は店の中では一番スピリチュアルとは縁遠い人間である。
店に来るお客様に「あなた、こんなに石に囲まれていて、いろいろ感じられることでしょう?」と言われると、きっぱり!「いいえ、感じません。私はただの石好きですから」と清く正しくお返事をさせていただいている。
もちろん、こうはっきりと答えさせていただくには理由が色々あるのだが、それを言わせてもらうと、話が長くはなるし、お客様個人への批判にも繋がりかねないので、それは割愛させていただく。
とりあえず、私の基本的なスタンスは「石が好き」。それでいいんじゃないかな?と思っている。
「薔薇は薔薇という名前がなくても薔薇でしょう?」とは『ロミオとジュリエット』に出てくる有名な台詞だけれど、「ロシレム」とか「アンダーラ」とか「フェナカイト」という名前だからすごいわけじゃないでしょう?と思う。(別にロシレムやアンダーラ、その他諸々の石を持っているからといって、それを批判しているわけではありません。良い石は良いと思うし)
すごーく、以前から疑問に、そう純粋に疑問に思っていたのだけれど、同じようなカット、大きさで、ミルキークォーツとジラソルとメタモルフォゼスをごちゃごちゃにして置いたら、皆さん、『石のエネルギー』というものだけで、選別できるのでしょうか?

はっきりいって、私はできないね。(エッヘン!)

イジワルーに聞こえるかもしれない疑問だけど、本当に本当にものすごーく疑問なんだよね。(こればっかりは、本当に心からの疑問で嫌味とかではないので、なにとぞご理解をv)

以前見たTVで「芸能人格付けランキング」っていうのがあって、○万円のワインと1000円のワインをどっちがどっちなのか当てるっつーやつ。アレに似ている。
でも、とも思う。美味しければ○万円だろーと、1000円のワインだろーとかまわないじゃん?本来は。

たびたびpundarikaさんのお名前を出させていただいて恐縮なのだけれど、よく「キャサリン石」というネタが出てくる(そういえばロズ子さんの『ロズ子の石日記』にも出ていましたね)。
曰く、「石が『ハーイ!私がキャサリンよ〜』というわけではありません!」ということだ。だったら、と思う。ジラソルだろーが、ミルキーだろーが、メタモだろーが、「あなたの名前は『ジラソル』よ!いいわね!ジ・ラ・ソ・ル!!わかったわね!?」と個人個人の持ち主が強引だろーとなんだろーと、「ポチ」とか「タマ」みたいに固有名詞として付けちゃえばいいんじゃないかな、と思う。
別に石が「あ、あの〜、ボク、実はメタモなんですけど・・・」なんて喋るわけじゃないし。

綺麗だと思う石があって、好きだな〜、と思う石があったら、それが「良い」と思ったら!
それがなんであろーとも、例え細木数子さんが「ちょっと!いまアナタそれ持ったら、ダメよ!」といわれよーが、手に取ればいいじゃん?と思う。(その逆も然り。いくら「良い」といわれても、本人が「嫌」なら「嫌」でいいと思う)

だって、細木数子さんが「ダメよ!」(あるいは「良い石だから買いなさい!」だね)という石は、細木さんのフィルターを通して「ダメ」(or「良い」)といったわけであって、自分自身のフィルターを通して判断することの方が重要なんじゃないかな。
結局、石と出会って、石と触れ合うって、自分自身を信じることに繋がるし、自分に責任を持つことに繋がるのだと思う。
細木数子さんが「ダメ」と言って、石を手に取ることをやめたってことは、結局責任を細木さんに擦り付けているような感じ?って気がするのだよね。
うーん?そーゆーと、「最終判断は私がしたんだから、いいのよ!」とも言われそうだけど、でも「クリスタルとアナタが」ワークしたいんでしょー?
細木さんがクリスタルとワークするわけじゃないんじゃーん?と不思議に思う。(細木数子さん、勝手に有名人だからって名前を出してゴメンナサイ・・・)

石の名前にせよ、細木数子さんにせよ、ようは情報が氾濫しているから起こることのひとつで、もちろん良い面もあるとは思う。
わたしがどーこー、いう資格もないし。尊敬する人に「これってアナタに良い石よ」と言われると、やっぱり気になっちゃうし。買っちゃうし(笑)。

なにに、どこにフォーカスを持ってくるかが重要なのかな・・・?と思うのだけど、違うかな?